井屋山(いややま)高杉山(たかすぎやま)天狗石山(てんぐいしやま)一兵衛山(いちべえやま)・カブリ山 
 
単独 2009.06.27 
サイオト集会所(7:19/25)→光楽寺(7:54)→才乙林道の峠(8:28)→井屋山(9:11)→タカラガ峠(9:23)→小マキ山(9:41)→マキガ峠(9:50)→高杉山(10:10/20)→ホン峠(10:40)→天狗石山(11:07)→草尾根(11:29)→京良原峠(11:47)→一兵衛山(12:20/42)→ノベリ(13:18)→谷峠(13:43)→カブリ山(14:03)→サイオト集会所(14:35)
アルバム

サイオト集会所(7:24)

休耕田に放牧された牛たち(7:31)
サイオト集会所に車を置いて、カタゾウ峠に向かった。かつて小学校であったこの集会所は、まだまだしっかりしており、いろいろな地域の催しに使われているようだ。休耕田に牛が放牧されていた。この地区は昔から牧畜の盛んなところで、一兵衛山の東斜面や高杉山の西斜面は、かつて広大な牧場として利用されていた。

光楽寺(7:52)

才乙林道の峠(8:27)
才乙の集落には、2㎞と離れていないところに順覚寺と光楽寺という二つの寺がある。かつてこの山里には、かなりの人々の暮らしが在ったことがうかがわれる。光楽寺から30分も舗装された林道を上がると、峠に着いた。曲がりくねった松の古木が、道へ張り出しており、ここに高杉山稜線への取付がある。林道はこの先で十字路となり、板村、大暮、深山方面へ下っている。

刈り払われた径(8:59)

タカラガ峠(9:23)
高杉山までの径は笹が茂っていることを覚悟していたが、きれいに刈り払われていた。感謝。井屋山を下った鞍部がタカラガ峠。右左に踏跡があるが、里まで続いているかどうかは分からない。稜線の径は、杉・檜と潅木の林の中にあり、小マキ山まで展望はない。

土塁沿いの径(9:29)

高杉山 小マキ山より(9:41)
タカラガ峠からは、土塁沿いに径が続いている。かつて土塁には柵が設けられ、才乙側に広大な茅原の牧場が開けていた、という。小マキ山は、少し西に行ったところに夫婦岩があるので、夫婦岩山とも呼ばれている。ここから、サイオトスキー場のチャレンジコースがマキガ峠に下っている。

小マキ山(手前)、井屋山 高杉山より(10:12)

高杉山北斜面に立つブナの古木(10:22)
マキガ峠から高杉山へは、スキー場の管理道を上る。頂上のすぐ下がリフト降り場になっており、そこからの眺めは素晴らしい。辿ってきた井屋山や小マキ山が、指呼の間に見下ろせる。高杉山の頂上部は、笹が茂り、おまけに北側と西側を潅木に遮られて、展望は今一つである。が、ブナの疎林の北斜面を下るのは、まことに心地がいい。

ホン峠(10:39)

乳母御前神社(10:42)
ホン峠で乳母御前神社にお参りした。
乳母御前神社由緒
乳母御前神社の祭神は安徳天皇二位の局。大化改新後、武家勢力隆盛なりし中にて平家の勢力殊に旺盛なりし 当時清盛、経盛、頼盛等が安芸の領主となりたり 奢る平家は久しからずの諺の如く源氏勢力に追われ寿永4年長州壇ノ浦に滅亡せり 其の間一の谷屋島敗戦し、安芸の山間に逃れ、当地にも隠れしは王渡橋、王泊の地名等に明らかなり 其の節当地に滞在し地方の未開民に機織の業を授けられしと云う 其の時初めて梭の音を聞きしにより(さいおと)と地名を付けたりと云う 平家一族隠棲中当地方民の協力に対し阿佐山は才乙村、大暮村、米沢村、移原村、高野村の五ヶ村入相として授けられたと云う 其の後享保15年10月本地奉行所郡奉行武井又次郎、池谷杢右衛門よりの申渡書にて五ヶ村入相山として認められたり 大正初期五字に分割し才乙分218丁3反4畝歩は村有林に編入されたり 因の此の峠を本峠と称するのは、往古は大朝地方への往還(道路)なりしと云う 以上の如き伝説により山の守護神として、古代より部落民の尊敬最も厚く社殿御神体共に再建せり 昭和26年9月3日 傍らの石碑より

天狗石山山頂(11:06) 

京良原峠(来尾峠)(11:46)
「〈天狗石山〉という山名については、島根県側の「来尾村誌」(1887年・明治9年)に 三ツ石より廿七・八町南の間にあたり、字天狗石といって高さ一丈七・八尺中の高きところ二丈余りあり、まわり四間四方もこれある直岩これあり。尤も山峰南は安芸国みやまと申す所。道は大峯伝いにこれあり。去る安政四巳年(1857)八月に亀井様御巡村の節、三ツ石と天狗石と御見分遊ばされ候… とあり、天狗石という巨岩が山名となったことがわかる。西中国山地(桑原良敏)
「国土地理院の地図には、才乙より来尾へ越す県境の峠を〈来尾峠〉としてあるが、『国郡志御用ニ付下志らべ書出帳・才乙村』に 丑の方石見国来尾村との境を京良原峠と申候 とあり、文政十二年(1829年)の『山県郡全図』にも〈京良原峠〉の峠名が記されている。また戦後刊行された『中野村史』も〈京良原峠〉が使用されている。現在、峠の北側の来尾側の老人も、才乙のバス終点付近の古老も、〈キョウラバラダオ〉と呼んでいるので、これは訂正すべきである。西中国山地(桑原良敏)

一兵衛山山頂(12:19) 

カブリ山山頂(14:03)
地形図には一兵衛山家山(イチベエサンカヤマ)とあり、サンカは共有採草山の方言とか。昭和40年頃までは才乙牧場として馬、牛の放牧を行っており、草原の山であった。
「地形図には冠山とあるが、山頂に懸崖や露岩はない。カブリによく似た古語にカブロ(禿)がある。木の生えていない山をカブロ山というが、この山は昔から草原の山で、カブロ→カブリ→カフリと転訛したしたものと考えられる。
西中国山地(桑原良敏)
出会った草花   
シモツケ(下野) バラ科 ヤマツツジ(山躑躅) ツツジ科 ササユリ(笹百合) ユリ科 



軌跡図
  所要時間:7時間10分、歩行距離:18.3㎞